2009年12月9日水曜日

生と死は、コインの表と裏のよう

別に厨二風を吹かせたい訳じゃない。

突然だが、俺の両親は医療従事者である。
父は製薬会社勤務。
様々な症状に対しての薬剤を研究開発する機関に所属していた為、医者並、時に医者以上に病気、症状、対処法に詳しい。
母は老人介護施設勤務。
老人だけでなく、怪我人が社会的な日常生活を送れるようサポートする、リハビリテーションのエキスパート。

小さい頃からそんな環境にいたためか、どうしたってそういった知識が身についてしまう。
俺の場合は専門基礎知識が伴わない為、雑学の領域を出ないのかも知れない。

しかしそんな取ってつけたような知識でさえ役に立つ事は結構あったりするものだ。

知人の母が、ある症状を訴え、仕事先から帰宅したという話を聞いた時だ。
「激しい頭痛と眩暈、吐き気がして、一瞬意識がもうろうとして、倒れそうになった」
要約すると、知人は上のような事を母から聞いたと言っていた。

俺はその時にピンと思ったのだ。
脳出血の疑いがあるな、と。

ただの雑学程度の知識で、全てを病気と決め付けるような思考は本来ならば好ましく無いのかもしれない。
だけれども、その一部始終を聞いている限りでは、ただの頭痛だとは思えなかったのだ。
しかも恐ろしいのは、その症状が出たのが昨日の事で、病院には行っていないという。
俺は知人に失礼を覚悟で、母親を病院に連れて行くようにと、強く言った。

もちろん知人からしてみれば、医者意外の言う事なんて信憑性に足りぬもので、案外そういう大事な時に限って、当の本人は「大丈夫だろう」と思い込んでいたりするものである。
しかし幸いにも、しぶしぶ友人は母を病院に連れて行ってくれたのである。
そしてその母親はその日のうちに手術を受ける事になった。
脳出血。具体的な箇所までは書かないが、ほうって置けば脳障害を併発。あるいは最悪、死に至る所であった。時間的猶予はそんなに残されていなかったそうである。

命を救った、なんて慢心に満ちた事を言うつもりはない。

ただまぁ、最近良く思うのである。

命とは絶妙なバランスの上で成り立っている奇跡であり、それは意外な程に崩れ易く、脆いものなのだと。

例えば高齢の方の場合、まず歩行が死と隣合わせである。
なぜなら、転倒=骨折はまず回避出来ず、打ち所によってはそれが致命傷になる。
たった5mm程度の段差につまずき、前向きに転倒。手で体を支えようとしたが、手首の骨折。そのまま額を地面にぶつけ、頭蓋骨陥没骨折による脳の損傷で死亡。
その3秒前まで、元気に笑顔で笑っていた、健康体の方。

残念ながら、現在の高齢化社会においてこれはざらに起きる事なのである。

僕らの年齢であれば転倒など無傷あるいはかすり傷で済むような事でも、年齢によってはそうではない。
そして若い健康体の僕らでも、いつものお風呂で溺れて窒息死する事もあるのである。
ただの頭痛と肩こりが、くも膜下出血の兆候である可能性もあるのである。
それを見過ごせば、もう助からない。三日以内に死か、良くて植物状態だ。

だからと言って、知ることによって、症状全てを重病だとくくって心配するのはいい事だとは思わない。

けれど、「知る」事で初めて、心配や対処、命の重さやその他もろもろの感情を得られるのであるとすれば、それは人間にとってとても大切な事なんじゃないかと、僕は思う。

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